「自分の選択が正しいのか・間違っているのか分からなくなる事ってありませんか?」
おそらく、誰も自分の選択が正しいのか・間違っているのかなんて分からないのではないかと思います。そもそも、何事においても何が正しくて・何が間違えなのかも捉え方によって変わるので判断するのは難しいです。
以前の記事、「迷ったときは「楽しそう」を基準に選択する!決断できない時に使える方法!」で、何かを決断する時や、決めるときには「楽しそう」という自分の感情に従って決断すればいいと言ったことを書きました。
それは今でも同じことを考えていますが、少し前にふとした拍子に、「自分のした決断や行動が果たして正しかったのか、間違えだったのか?」が分からなくなった出来事がありました。
上記でも言いましたが、基本的には「そんなものは誰もわからない」と僕は思っています。
「何が正しくて、何が間違っているのか」なんて分からないことを考えるよりも、とりあえず自分で正しい選択をしていると考える方が、よっぽどいいとも思っています。
それに、もし自分の選択が間違っていたとしても、間違ったことを自覚して、またやり直せばいいとも僕は思っています。
なんども言いますが「だって、正しいか・間違っているかなんて、わかりませんもんw」
少しでも前向きでいないと、毎日不安を抱えながら生きる事になってしまいますし・・・。それに、自分自身を自分で信じなければ、他に誰が信じてくれるのでしょうか?
「なんて、たまにはちょっと偉そうな事も言ってみますw」
まぁ、なんと言うか、「すべての事が正しくもあるし、間違えでもあるのではないかと」
その時代によっても、国によっても、「正しい事と間違った事」の基準なんて変わるわけですから。
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自分の選択が「正しいか・間違っている」かなんて誰にもわからない
以前の記事、「選択肢は少ない方がいいと思う理由!多すぎると逆に迷って決められない!」の中でも少し書きましたが、人は合理的な判断をするのが難しいだじゃなくて、選択肢が増えると判断自体できなくなると証明されているとのこと。
特に、人生の重要な決断をするときなど選択することは本当に難しいと思います。そう考えると、そもそも、何に対しても選択すること自体が難しいってことですよね。
「その悩み、哲学者がすでに答えを出しています」の本の中の「人生の選択に迫られている」の部分で認知心理学者のダニエル・カーネマンが提唱する「プロスペクト理論」や実験について書かれています。
詳しくはここではお話ししませんが、結論だけいうと、
「人間は合理的な判断ができない」
っということ。
「人間は、利益についてはより確実な選択肢を選ぶ傾向があり、損失についてはリスクをとってギャンブル的な選択肢を選ぶ傾向がある」という結論を導き出しています。
カーネマンは「人間は損失の苦しみをより気にしてしまう」と指摘しています。
利益と損失が同額であった場合、同じ額の利益を得る喜びよりも、損失は2.25倍苦しみを強く感じるというデータが得られます。
「その悩み、哲学者がすでに答えを出しています」より引用
何よりも、損をしたくないという感情が先立って、合理的でない判断をしてしまうということですね。
その時の感情や自分の選択に対しての損得を基準にして、選択をしていることなのかなと。そう考えると、そもそも自分の選択が「正しいのか・間違っているのか」わからないですよね。
自分では感情に任せて選択をしてないと思っていても、実は無意識に選択してしまっている可能性も考えられるってことではないのかなと。
同書の中で書かれていますが、 「出来るだけ自分で選択しないように心がけよ」とアドバイスする学者もいるようですしね。
それほど、僕たちにとって選択することは難しいことあり、実はちゃんとした選択ができていないということなのかもしれないません。
自分の選択が、誰かを救うことも、傷つけることもあると思った出来事
「ふと自分がやったことは、ただのエゴだよなぁ〜」っと思う出来事がありました。
初めに言っておきますが、別に大した出来事ではなく、何気なく僕がとった行動からふと思っただけです。
それは、ある夜に家の玄関を出て夜風にあたっているときのことでした。
ふと玄関にあるライトが目に入り見上げてみると、そこには蜘蛛の巣がありました。
そして、その蜘蛛の巣には一匹の蜘蛛と一匹の小さい蛾が捕まっていたのですが、僕はふとバタバタと暴れている蛾の姿を見て少し考えました。
「蛾を助けてあげようかなぁ〜」っと。
そして、特になんの考えなしに蜘蛛の巣を破壊して、蛾を助けました。はっきりって、これは僕のただの気まぐれです。別に、何か意図があった訳ではないです。
そして、そのバタバタしている小さい蛾を助けた後に少し軽率な行動を取ってしまった自分に後悔の念が湧き上がりました。
その後悔の念というのが、
「確かに、蛾を助けたことによって蛾にしてみれば、九死に一生をえた気分でしょう! でも、その蜘蛛にとっては、ただの迷惑な話だよなぁ」っと
せっかく捕まえた獲物を逃してしまったんですから・・・。
もしかしたら、その蜘蛛にとっては数週間振りまたは数ヶ月振りの獲物だったかもしれないのに・・・。
そう考えると、蛾にしてみれば、僕は、もう少しで食べられてしまったであろう所を助けた恩人。
それとは逆に、蜘蛛にしてみれば、僕は、せっかく仕留めた獲物を逃してしまった憎き奴になるのではないかと。
その時にとった僕の軽率な行動によって、「感謝の感情」と「憎しみ」の感情を同時に作ってしまったのではないのかと・・・。
もちろん、その蛾と蜘蛛にそう言った感情があるとは思っていませんけどねw
っと言った出来事があったわけです。
自然界の弱肉強食の世界ならば、弱い者が強い者に食べられるという事が普通の世界かもしれません。
ですが、今回僕がとった行動はどうでしょうか?
その一匹の小さな蜘蛛と一匹の小さな蛾にとっては、人間である僕は強者になるのかもしれません。
仮に僕がその2匹の虫にとっては強者であったとして、僕の気まぐれでまるで神のように二つの命を自由に弄んでもいいものなのか?
もちろん、実際に弄んでいるわけではないですが、僕のその捕食された小さな蛾を助ける選択は果たして正しい選択だったのか?
その時は、「蛾が可哀想だから助けようかなぁ〜」っという、ただの僕の気まぐれで、そのような行動をとりました。
別に、「蛾に感謝されたいとか」「蜘蛛に恨まれるのかなぁ〜」なんてことは全く考えていませんでした。
「なんとなく蛾を助けたい気分と言った、自分のエゴによってよった行動です・・・」
もう一つの選択肢として、「双方に対して何もしない」という選択肢もあったはずですが、僕はあえて手を下しました。
なんてことをふとその時に考えたわけです。
自分の選択が「正しい・間違っている」よりも、「覚悟」を持つ事が大切!
そんなことを考えながら、思ったのが、
起こしてしまった行動は、もうどうしようもありません。
『ドラえもん』でもいない限り過去には戻れませんし・・・。
後になって自分のした選択が正しかったと思うことも、それとは反対に間違っていたかも後悔することもあります。
どちらの選択をしたにしろ、その選択が正しい・正しくないにしろ、
「その選択をした事やする事に対して、覚悟は必要だよなぁ〜」っと思ったわけです。
今回の「蜘蛛と蛾」の場合を考えると、
「蛾には感謝されるかもしれないが、蜘蛛には恨まれるという覚悟をする」と言った感じでしょうか。
さいごに
何かを選択する時、特に誰かに対して影響があるような選択をする時は、その選択をする事に対しての覚悟が必要だと言いたかったのです。
もちろん、自分自身についての選択でも同じ事です!
自分で選択したのに、他人のせいにしたり、文句を言うのはおかしな話です。自分がした選択によって、どうなるのかなんて未来のことは誰にもわかりません。
もしかしたら、ある程は、度予測出来ることもあるかもしれません。
ですが、予測したとしても、必ずその結果になるわけではありません。
なので、何かを選択する時は、どちらの結果(良い結果も悪い結果も)受け入れる覚悟をするべきだなと言うことです!
変な話、晩御飯の選択にもある意味責任を持つべきだとすら思います。
例えば、
夕食を食べようとしていて、2つの屋台が目の前にあっとします。あなたが、右の屋台の方を選んで食中毒になったとしてもそれは、あなたが選択した結果であると。
もちろん、その右側の屋台の店主の衛生管理などにも問題があったのは間違いないかもしれません。
ですが、「選択したのはあたなです!」
食中毒になるのが嫌ならば、外食などせずに、自分自身で選んだ食材で料理をして食べればいいわけですからね。
「そんなの誰にも分かるわけない!」っと思うかもしれませんけどねw
それは、どの場面での選択でも同じと言えるのではないのかなと言うことです。
この場合はちょっと極端かもしれませんが、覚悟を持つと言うことはそう言うことではないかなと。
もちろん、文句を言ってはいけないとか、苦情を言うのはおかしいということを言いたいわけではないですよw
ただ単純に最低限の「覚悟」は必要だなということを言いたいんです!
普段の生活で、むしろ毎日選択をしていると思います。 正確な数はわかりませんが、数十回以上はしている気がします、
そんな沢山の選択がある中で、一つ一つをしっかりと考えて選択するなんてことは、まず無理ですw
それでも、何気にした選択だとしても、自分で選択して行動したことには間違いないわけですからね!
正直、僕自身言っていることも「正しいのか・間違っているのか」なんて分かりませんw 正しいと信じるしかないっすねw